2018年最終投稿

幸せな時間はあっという間に過ぎ、再びもがいたり、迷ったり、の時間に立ち戻る。そんなことを感じる。考え方を変えれば、そんな迷いもがく時間にも何か満ちるべき何かがあるはずなのだが、夢かと惑う様な時間を過ごしたとあれば、その感覚との落差が、どうしても日々の時間を、軽い絶望を伴った灰色にくすんだものにしてしまうのも致し方ないのかもしれない。

まるで、それは星砂の海岸の様なのだ。普通のサンゴのかけらからなる砂に混じって星型の小さな有孔虫の殻が散りばめられた海岸。幸せな星型がそこここ見つかり、小さな海岸を特別な砂浜にする。

星型の殻にも、サンゴの砕かれた砂にも、それが以前纏っていた有機質の体があり、魂が宿っており、つまりはいきた記憶が刻まれている。思い出の堆積した砂浜。

今年という年はそんな風に形容しておこう。僕の中で今年という年が総括するにはあまりにも近過ぎて、体の中にしっかりと吸収仕切っていない気がする。

もう少し時間が経てば、一体自分はあの苛烈な太陽の降り注ぐ街角でどんな風に途方に暮れていたのか、降ったり止んだりの垂れ込めた雨雲の下でどうやってすり減っていったのか、ステージに立つ出演者を眺めながらここまでの道のりをどう感じつつその音楽を聴いたのか、深夜に落書きだらけの壁のフェンスの前で真っ黒焦げのジャークチキンを汗まみれで焼き続ける男を眺め、どう腹をすかせていたのか、白熱光が柔らかく石畳の急峻な階段を照らす街を独り歩きながら誰を思ったのか、下り坂の向こうに海が見えるあの街で僕がどれだけ幸せであったのか…

自分で了解できるだろうと思う。

そんな一年が終わる。今年もお付き合いいただきありがとうございました。みなさま、よいお年をお迎えください。

Jean-Marc Foltz & Stéphan Oliva play Gershwin

ブログを始めて二番目に書いたのが、ある二人組についてのことだった。OlivaとFoltz。ピアノのStéphan OlivaもクラリネットのJean-Marc Foltzも共にフランス人。Olivaに関しては確か日本のインディペンデントのレーベルが扱ったアルバムを通して知ったんだと思う。Foltzについてはその数年後にBassのBruno Chevillonとのimprovisationライブのアルバムで知った。二人の共演しているアルバムを始めて聴いたのはOliva名義のアルバムで、そのアルバムはOlivaが何人かのミュージシャンとデュオを演奏する内容になっていた。

Foltzとはコルトレーンの曲naimaとLonnie’s Lamentを演奏しており、その極限まで削ぎ落とした音で表現された、たゆたう音の静謐さの中に、二人の音楽的繋がりを強く感じた。

その後二人の共演するアルバムがいくつかリリースされ、やはり相性の良さというのはあったのだと思うと同時に、僕はこの二人の音楽を敬愛するようになった。二人とも一つ一つの音の扱いが極めて丁寧で、普通ならテンポが失速してしまうギリギリのところで音楽を持続させる能力に長けている。一つの音に何を語らせるのかをよく知っているのだ。

improvisationだと躊躇するかもしれないが、もしガーシュウィンの曲を集めたアルバムがあると知ったらどうだろう?興味が沸かないか?とてもいいアルバムだよ。探してごらん。そのガーシュウィンの曲My Man’s gone nowを演奏する二人の動画を見つけたので紹介することにした。

同業者としてFoltzのどこがいいのかというと、楽器を演奏しているように感ずることなく音楽に入り込める音色だ、ということだろう。バスクラリネット奏者でクラシック以外の音楽をやっている人が陥りがちなのが「上手なバスクラリネットの演奏」が音楽の手前に来ちゃうという現象。そういう演奏は僕にとってつまらない。もちろんバスクラリネットに限った話ではないけれど。まあ同業者としてはどうしても辛口になってしまうのは致し方ない。ソプラノクラリネットについては、スィングの人ばっかりでリスクを背負う馬鹿(いい意味だぜ)が見当たらないのでそれはそれで面白くない。

みんな違って当たり前。そして、人がやったことをやるんだったら、その枠組みをどう外していくかを考えて、自分の表現を磨き続けることが、音楽をやる者の務めだろう。その姿勢を保つことが今後10年20年いや死ぬまでの自分の音楽の成り行きを決めるのだ。

Portal@YouTube

僕は人に自分の好きな音楽を教えるのが好きだ。これ、いいでしょってね。その人がおそらく聞いたことのないであろう、でもきっと新鮮な気持ちで新しいものに触れる喜びを噛みしめるであろう音楽を。まあ、勝手で押し付けがましい行為ではあるので、あまり最近はそういうことをしなくなった気がする。

とはいえ、このクソマイナーなクラリネットっていう楽器をやっていると、どうしてもadvocator(提唱者)的な役割は誰かしらが担わなければならないとも思う。有名な御仁は、そんなことする必要を感じないのであろう、あるいは周りに他のクラリネット吹きが集まるので、そちらのadovocatorになっている。

妙な話だが、僕は日本のクラリネット業界というものにとんと縁がなく、またある意味ほぼ黙殺されていると思っている。それであるが故に自由だし好き放題やれるのだが。

さて、そんな僕が何のadvocatorであるべきかというと、クラリネットを知らない人に向けて、この楽器を手にした怪物たちを紹介するということの、であるべきなのだろう。

YouTubeはappleと同様に音楽業界を創造的破壊とでもいうべき状況に追い込んだ。今や、誰もが音楽は無料だと思う時代だ。その通り。その状況の中で誰が生き残るのかはわからない。しかし、利用することによってのみ、その先へ進めるのだと思う。

前置きが長くなったが、要は僕が観たYouTubeの、チョーかっちょいいと僕が思う映像を紹介したいだけの話。

まずはこれ。

どこかの記事で「呪われた詩人」なんて呼ばれているのを目にして、僕もそのような称号を得たいと思わせられ、確かにライブにしろ、アルバムにしろ、その称号に違わぬめちゃくちゃぶりと、帝王ぶりを存分に表すMichel Portal。YouYube上には見ごたえのあるライブ映像が多く見つかるのだが、最近見つけたこのEurope Jazz 2017のライブは秀逸だ。keybordのBojan ZとBassのBruno Chevillonは長年に渡りPortalのライブを共にしてきた人たちだが、そこにTromboneのNils WogramとDrumsのLander Gyselinckというプレーヤーが入ることで、音楽に新鮮な空気が供給される。もともとPortalのライブは自由でダイナミックで滅茶苦茶なのが魅力なのだが、いい意味でPortalのやんちゃぶりにみんなで乗っかっちゃうのがお決まりなのだ。

その点このライブはPortalの曲以外にもBojanの曲も演奏したりと、少し毛色の違うライブになっている。もちろん、Portalのやっていることはいつも通りだけれど、もはや参謀と化したBojan、そして、一体この人は崩れるということがないのかと思う強力な演奏で音楽の軸を生み出すBruno Chevillonを従え、そこにPortalチョイスではなくおそらくBojanチョイスの二人のプレーヤーが堂々たる存在感でPortalに対峙する。まるでレギュラーバンドのような安定感もあり、そこ此処にPortalならではの段取りの手違いやアンサンブルのズレも起こり、ライブならではのスリルも楽しめる。

まあ、音楽は文字で説明するよりも実際に聴くなり観るなりするのが一番だ。この映像はかっこいいよ。

 

イヌイットの音楽は二音だけから成るという。我々にとって灰色と言われる色は彼らにとって幾百もの全く異なる色彩として認知される。インドやアラブには微分音。あるいは西洋音楽で変拍子と呼ばれるものが当たり前のようにる。日本にも、当然ピタゴラスの作り出した純正律あるいは、西洋音楽がシステムとして使いやすいように作り出した平均律とは異なる距離の音の配列からなる音楽がある。人を年齢や性別できっぱりと分断し、その一方で異なる視点を持つものを黙殺することによって社会を優先させる”おとなしい”文化をもつ日本がある一方で、革命によって権利を獲得してきた国フランスがある。彼らの中にもはっきりとした階級意識があり、特段日本よりも優れた国であるとも思わないし、この世の中に優れたものなどというのは相対的にしか有り得ないのではあるが。

とはいえ、なんらかの優れたものになりたい、と切望するのは、音楽というモノを創って、誰かに届けたいと思っている音楽家にとっての、自明の欲望ではあるのだろう。いろいろな世界の様々を見た上で、さて、自分の存在がごく普通のものにようやく見え始めた時に、この満たされない欲望が、苛立ちとともに自分を蝕んでいくのを感じる。

一向に歩み始めない音符と、数ヶ月間ぐるぐると回り続ける陳腐なモチーフの中で、そこから抜け出すことも叶わず、たまらず、さして飲めない酒に手を伸ばす。泡沫の中で一瞬聞こえた遠鳴りを閃きと思うのだが、それを書き留めるには酩酊しすぎている。

まあ、曲作りに行き詰まった時のおきまりの思考の悪あがきとでも言っておこうか。まあ、なんとか形にはなって、ひとまず完成まではこぎつけたから。とはいえ、こうしていつ誰に聴かれるとも知れないものが堆積していくのは気分が悪い。じゃあ、なんで作っているのか?わからない。けれど、それがわかった時が、きっと辞める時なんだろう。

楽器の持ち替え

バスクラリネットとソプラノクラリネットの持ち替えというのは厄介な問題だ。少なくとも僕にとっては。何が問題かというと、物理的に違うものを演奏する際にその両方に自分を合わせなければならないのだが、その合わせる合わせ方がなかなか定まらないのだ。

持ち替えをするプレーヤーは世の中にいっぱいいる。中にはソプラノ・アルト・テナー・バリトンサックス・ソプラノクラリネット・バスクラリネット・フルート・オーボエという強者もいて、僕の悩みなんて取るに足らないもののようにも思う。そう入った持ち替え上手に訊くと「別物と考えているよ」という答えが返っってくる。別物とは、サックスでもソプラノとアルトを同じ楽器を吹くようには吹いていないということ。つまり彼らは、それぞれの楽器に対して、適切なアプローチをきっちりと切り替えてできているということだ。

僕はそこの考え方がどうも違うらしい。楽器の音色としてはバスとソプラノの違いははっきりと理解しているし、演奏する際にその楽器を選択する意図もはっきりとしている。

ただ、いざ楽器を持ち替える時の自分の理想は、可能な限り道後として同じものを使っているという感覚でいられる、ということだ。特に吹き心地についてはそのこだわりが強い。同じような息の入り方で、同じ程度の吹き心地。もちろん全く同じにはなるわけがないのだけれど、可能な限り近づける。

持ち替えをするようになって15年ほどだろうか。未だに試行錯誤の毎日ではあるのだが、ここまでこだわる一方で、もう一つ信条としていることもある。

「あまりこだわらない」

リードなんて一日の演奏の中でコンディションが当たり前のように変わる。自分の体調によって唇の状態も一定であるわけはない。そういった変化を気にしすぎると、演奏することよりもその違和感に気が持って行かれてしまう。だから、ある程度で決め打ちをするということも大切だ。その中で少しづつ自分の演奏のクオリティを底上げしていくことが技術ということだ。

他のミュージシャンが、山のようにリードを並べて「今日はレコーディング!リードを選ぶぞ」みたいなSNSのポストを見て羨ましく思う時もあるけれど。

さて、なんでこんなことを書いたかというと、使い慣れたリードから別のリードにバスとソプラノを両方変えたのだ。最近のリードの価格上昇は看過することのできない度合いだ。リード楽器を演奏しない人には知られて居ない事かもしれないが、一箱10枚のリードが全部使えるわけでもなく、当たり外れがあるのが普通だと言われている。実際、バラツキの程度はかなりあるので、人によっては一箱に一枚なんていうこともあるらしい。僕は幸い「こだわらない」ことでその比率を7割程度にあげた。

とはいえ、やはり今まで気に入って使って居たモデルも値段が上がってきた。そこで、少し目先を変えてみることにしたのだ。今まで使っていたのは、バスもソプラノもダダリオ社のréserve classicというもの。¥2600-¥3000ぐらいで販売されていて、安い時に買っていたのだが、今回は見つからなかった。そこで、RICO traditionalというモデルに変えた。5年ぶりに使う気がする。¥2100。安い。

届いたものを使って見た。バスに関しては、5枚入り全て使用できる範囲内ではあるが、音の立ち上がりが少し遅くて、地味な音色だ。réserveの方が断然音色やイントネーションのヴァリエーションをつけやすいし、ポテンシャルも高い。逆の見方をすれば、TRADITIONALはあまり変化がつかないぶんルーズな吹き方をしても安定した演奏を供給できるというということでもある。

ソプラノの方も同じような感じだった。ただ、持ち替えという点からすると若干吹き心地に違和感がでる。これを何でカヴァーするかが課題だ。バスの方が好感触ではあるので、そちらに寄せる感覚で、ソプラノのマウスピースを変えるのか、吹き方を調節するのか。まだ使い始めだから、時間が経てばもう少し自分の感覚が方向を見出してくれそうではある。

The Plan

Tim Berneという音楽家がいて、僕のプロフィールやブログなどを読んでくれた人はわかっているかと思うが、彼は僕のいわゆる“SPECIAL”だ。

今、僕は計画を立てている。

「Tim Berne Japan Tour w/Manabu Kitada」

というもの。オーガナイズを僕がやろうと考えているのだが、当然一人でできることではない。様々な知識が必要だし、そのためにも人の力が必要だ。当然お金も必要だ。クリヤーすべき課題はいくつもある。

でもまずは。Tim Berneについて書こう。

彼の経歴はユニークで、サックスを始めたのは大学生になってから。バスケに夢中だったTimが足を負傷して、バスケを断念せざるを得なくなってから、気分転換に始めたサックスだったそうだ。それまでは、純粋にリスナーとしてジャズを中心に様々な音楽を聴きまくっていたらしい。

見よう見まねでフリージャズの真似事をセッションでやるようになり、やがてニューヨークに移りジュリアス・ヘンフィルという人に音楽の全てを教わる。作曲のやり方、セルフレーベルの立ち上げ方、練習の仕方、音楽の’magic’について…

ジャズの王道の人が大抵歩む音楽大学主席でもコンテスト優勝でもなく、そんなプロフィールとは無縁の全く違う経路をたどり、時にレコードショップてアルバイトをしながら、自分のレーベルを立ち上げ、時にメジャーレーベルにも作品を残す。でも、基本は全て自分でブッキングやら、アルバムの発送やら、ツアーの手配も。それをひたすら続けて、今やニューヨークのミュージシャンが尊敬し、何かしら影響を受けるアーティストになった。その作品の全てが、他の誰にも似つかない彼の音で分厚く覆われている。偉大なる起業家にして、誇り高きアーティスト。まあ、本人が聞いたら肩をすくめて軽く流すだろうけれど。

日本にはバブルの頃に一度来て、今はなき銀座のソニービルの屋上でライブをやったそうだ。

僕が彼の音楽に惹かれたのは、その謎めいた時に20分に以上に及ぶ音楽を解き明かしたかったからだ。なんで普通のスタンダードと違う聴感なのに、物語が成立しているのだろう、と聴きながらいつも思った。抗えない謎の魅力。難解というには野蛮に美しく響く、音の重なり合い、絡み合い。他のどんな音楽にもみあたらない音楽だった。

それを聴き続けて、二十年以上。NYに自ら出向き、何度か直接彼に会い、プライベートでセッションしたり、ライブをしたりした中で引き出した言葉。「MANABU!ツアーをやろうぜ」

もちろんすぐにでもやりたかったけれど、でもどうやって?僕は日本では無名のマイナーな楽器のインプロ屋さん。Timとて、日本ではわずかな人にしか知られていない。ある時、とあるミュージシャンにTimについて話したら「過去の人だよね」と言われてびっくりした。過去にするのはお前のすることじゃないって、その大御所に言いかけた。言っとけばよかったぜ。今思えば。

しかもTimの作る音楽はジャズスタンダードでもなく、かと言ってノリの良いグルーブが続く類の音楽でもない。コンテンポラリーなジャズプレーヤーのような、テクニックと高度な理論を駆使し、変拍子をもろともせず弾き切る類の音楽とも違う。映像的にも見え、深く奥行きがでる空間を構成する音楽でもあり、エネルギーの塊がぶつかってくるような、実に人間くさい一面も併せ持つ音楽。

はっきり言って、手強い音楽だ。

まあ、そんな状況の中で色々考えたが、答えは出ない。

でも、やると決めたからには、闇雲にでもいいから動くことにした。こっちは五年かけて自腹切ってここまでやって来たんだ。今更中途半端で終わらせる気は無い。ただ、これからは自分一人では不可能だ。でも人が集まれば絶対実現できる。だから、知られてないなら知らせることから始めるとしよう。

Timのウェブサイト。アートワークはSteve Byram。ビースティーボーイズのジャケットも手がけたことがある最高にかっこいい作品を作る。http://www.screwgunrecords.com/

僕とTimのプライベートセッションの様子。(project/soundのページと同じもの)

Timとの最初の出会いを書いたブログ。
https://uncomfortablecomfortable.com/2017/04/06/red-door/

今考えているのは、この「Tim Berne Japan Tour w/Manabu Kitada」をやるためにチームを編成すること。僕に無い知恵を大量に必要としているので、これは必須だ。

興味を持ったら、あるいは質問や思うところがあったら、コンタクトフォームからメッセージをぜひ。

open your mind

月光茶房というところに行った。表参道にある喫茶店で、ECMという、ジャズ、クラシック音楽、現代音楽などを取り扱うノルウェーのレーベルのアルバムのほぼ全てを所有していることでも有名だ。それ以外にも、ヨーロッパのフリージャズのレーベルのアルバムも多く所有している。店主の原田さんと少し話をする中で興味深いことを知った。

ECMの最大の市場は日本であると僕は思っていた。リスナーの多さという点でも売り上げという点でも。なぜ、そう思っていたかは冷静に考えれば理由のない勝手な思い込みではあるのだが。そういった時期もあったらしい。しかし、今やECMのアジア圏における最大のマーケットは韓国に移っているそうだ。

その理由は、日本のリスナーはECMのジャズのシリーズを聴くがECM new seriesというクラシック系(現代音楽も含む)のアルバムはほとんど聴かないということにあるらしい。日本に比べ韓国の方が音楽教育への意識は高いらしく、そういった環境が、新しい音楽を受け入れやすい土壌を作っているのだそうだ。

そういえば、数年前にフランスのジャズプレーヤーの大御所Henri Texierがソウルに来ているのをSNSで知ったのを思い出した。Henri Texierが日本に来たのは確か2000年ごろが最後。以降フランス系のプレーヤーが来日する機会は激減した。

新しい音楽への好奇心と渇望は、音楽が存在しそれを作り出す人々の原動力である一方で、もちろん聞く側の人々にもあって然るべきだと、僕は考える。あえて「べき」というのはどうかと思う。しかし、未知のもの、知られざるものへの、知りたい、体験したい、感じ取りたいという欲求を失っているのだとすれば、それは取り戻す「べき」ものなのだ。居心地のいい環境で快適なものだけを摂取して満足するのだとすれば、それは人間的というよりも、自動化された快楽需要装置のようなものだ。

単純なことなんだ。美しいものを、楽しいものを、聴きたい、というその思いを否定はしないが、少しだけでいいから、日々、予期せぬ音に出会い戸惑ってみる経験をしてほしい。その先に思いがけない発見がきっとあるはずなんだ。そうすることで、次なる創造が起こり、さらなる驚きと興奮と喜びが日々に訪れる。様々な人のありようが許容され、お互いにそれを受容し理解できるようになるとすれば、それが多様性に適応するための土壌を作り出すのだと思う。僕らにはその視点がまだ著しく欠けているし、不寛容でいることで自分の城壁を頑なに分厚くしているように思えてならない。

たかが音楽だと言われるのだが、そのたかが音楽ですら不寛容になるのだとしたら、「たかが」では済まないものに対してどうできるというのだ?

心を開け。

WII4U#06 Ashley Urquhart : piano(Toronto)

“On Improvisation Music at it’s best is a collective bonding exercise. While this can encourage the creation of cliques and foster other exclusionary human tendencies, this bonding aspect can also serve as a language-less bridge between people who otherwise might find deep meaningful communication difficult or even impossible. Free flowing improvisation pursued from this vantage is a proto language form of communication. It is Music with a capital M. When improvising, we are not simply fulfilling another’s artistic vision as actors do in a play, but we are truly participating in the invention of a new conversation. Of course with any conversation, there will be conversationalists who merely parrot, those who rudely change the topic, those who listen well and those who listen not at all. To discover a new conversational partner who listens as well as they speak, contributes confidently but does not force you to back down, and who in equal measure compliments what you have to say while giving you pause to reconsider what may have previously seemed self-evident: this is a rare and beautiful experience. These connections are for me the goal of improvisation. In revealing we are not all as isolated as we may feel, and that there still exists a more primal way of reaching out into the darkness we may find there are others out there also searching.”

Ashley Urquhart July 2018

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「即興演奏においてベストと言えるのは、共に繋がった(触れ合った)と感じる演奏ができるときだろう。時には派閥に分化することを助長したり、他者を排除したがる傾向が促進されたりするが、この”繋がる”面は、もしこの音楽がなければ、意味のあるコミュニケーションが困難か、もしくは不可能であろう人々に、言葉を必要としない架け橋となる。

この、言葉が必要ないという優位性から追及された、自由にあふれ流れ出す即興演奏はコミュニケーションの原初的な言語形式だ。大文字のMから始まるMusic。特別な音楽。即興演奏をするとき、我々は、芝居の役者がするような他者が事前に用意した脚本に基づいて会話を演じることに終始することなく、その場で新しい会話を創作し物語を語ることに参加する。

もちろんどんな会話であれ、鸚鵡返しの話し手がいたり、厚かましく話の流れを曲げる者がいたり、聞き上手がいたり、全く聞いていない連中もいる。

話し上手かつ聞き上手な会話の相手を発見することは、あなたが自信を持つことに貢献するけれど、あなたを後ろ向きにさせたりはしない。そして、すでに自明であることについて再考するために立ち止まることを許容してくれる、あなたが意見を持つべき評価基準について、同じ尺度を持っている人物を発見することも、同様のことだ。これはとても稀で美しい体験だ。

こうした繋がりは私にとっての即興のゴールだ。 我々が感じている孤立感が実は孤立しているわけではないことを明らかにする中で、そして、この暗がりの中で自分と同じように模索している他者を見つけ出すより確かな方法があるのだ。」 Ashley Urquhart July 2018

Ashleyはトロント在住のピアニスト。初めて会ったのはニューヨークだったが、その時は友人のベーシストでこのWII4Uで最初に紹介した、Alexとともに数日滞在するスケジュールの中の数時間話しただけだった。

あらためてこの5、6月にトロントを訪れた際、Alexのバンドやプライベートセッションで一緒に演奏した。Colour of Noiseという自分のバンドや、AlexのToriioなどで活動し、トロントのインプロヴィセーションシーンでもとても重要なポジションにいる人だと思う。

ちなみに、僕のファンクラブ限定でトロントでのレポートを何本か書いているのだが、その中にトロントっ子がそれほど美味しいと思わない食べ物についてのレポートがある。それの一つを教えてくれたのはAshley。車で送ってもらっている間に、その質問したらゲラゲラ笑って一生懸命考えてくれた。

「トロント市内もいいけれど、郊外にほんとは住みたいんだよねー、でもAlexがそれは絶対ダメだ、俺の音楽をできるのはAshleyしかいないんだって、すごく引き止めるのよねー」なんて会話も覚えている。ミュージシャンとしてそのぐらい信頼されるのは羨ましい限りだ。

瞬発力のある演奏をする一方で、音数を絞り込んで、間とタイミングで音楽を構成する能力は即興演奏でも、作曲でも群を抜いている。

彼女の音楽はSound Cloud上で聴ける。