どうタイトルをつけていいのかわからないけれど、読まれることを意識した上でのメモというのもありかなと。で、覚書。

インプロヴィセーションを習得することは、言語を習得することと似ている、ということは昔から言われている。言語は単語と文法で構成されていて、言語を習得する際にはそれらの知識が必要で、かつ考えることなく淀みなく自分の意思を表現できて、習得したと言える。インプロヴィセーションも同様で、たとえば、単語に当たるものがフレーズで、文法がコードプログレッション。それらをその場で考えることなく淀みなく表現できてインプロヴィセーションとなる。そのために様々な理論や知識が必要で、それを練習を通して、内面化することを時間をかけて行うわけだ。

果たして、このプロセスが本当に唯一の道なのだろうか?

言葉を発する前には無意識の思考や感情があって、それを言語化して表現することが、会話での一連の流れのはずだ。平たくいえば、話したい内容が浮かばなければ、どんなにボキャブラリーが豊富でも会話は続かない。逆に話したいことがあれば、単語や文法がぶっ壊れていても、なんとか表現することで、相手との会話はなんとなくであれ進行する。

そもそも相手とコネクトすることが重要なのだ。相手と繋がりたいと思う意思の、欲求のエネルギーが根っこにあって、それをどう表現するか、という時にそれがたまたま言語という手法であるか音楽であるかの違いがあるだけの話。要は言語と音楽が似ているのではなくて、そもそもの根っこが一緒で、その表出の仕方は違うのだ。

洗練された言葉や、話し方を身につけて、淀みなく話すことは誰しもが望むかもしれないけれど、本当の自分の表現はそこにはないのだと思う。格好をつけようとして、うまくいかなかった時に初めて見える素の部分が実は人の心に届く、なんてことはいくらでもあるし、思い返せばみんなそうして人を好きになったり近く感じたりするんじゃないか?

音楽もそうで、最先端の理論と複雑なリズムで他を寄せ付けぬ高みを目指すのもいいのだけれど、実はその裏側にあるむき出しの感情が現れる瞬間は、コントロールを失って焦っている時にこそある気がする。やばいと思うことこそ、最高の演奏になりうるのだ。もちろん落ち込むことの方が多いけれど。

少し話が逸れたが、僕らは理論よりもまず、むき出しで音を出すことに慣れた方がいい。音楽は言語と違って何をやっても伝わるものだから。楽器の基礎の手前。音が出る。それが無性に楽しい。それを人が聴きつけて自分に関心を持つ。それが無性に嬉しい。もっと音を出したくなる。もっといろんな音が欲しくなる。人がそれに音を重ねることで予期せぬ音が手に入り、物語が少しずつ始まる。ひとところに留まらない楽しい時間が始まる。理論も技術もまだ顔を出さない、無心に夢中に音を出す時間。

その感覚があってこそ、インプロヴィセーションが可能になるのかなと思う。みんな少し知識と思考が先行しすぎているような気がするな。セッションの時のお作法を指南するガイドブックも出てくるぐらいのこのご時世。自由で滅茶苦茶でいいことを体感することが少なすぎて窮屈だ。枠組みから外れたくてインプロヴィセーションをやってるのに、なんだかまた枠の中にはまったような気がする。表現したい音楽に突然スタイルやお作法みたいなものを強要されて、自分の言いたいことが言えなくなってしまいそうになる気がする。さながら「好きです」は、しかるべき時にきちんとこういう風に言いなさい、と教え込まれ強要されるかのように。

人の出会いの数だけ「好きです」があって、その表現も、言語も、トーンも、表情も、結果も様々。それと同じこと。大事なのは、心の奥底にある、それを伝えたいと思う気持ちと欲求と情熱。

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