思い出。

これはいったいなんなのだろうか、と考える。数年前のことを手繰り寄せようとしてみたり、20年以上前のことを忘れようとしたくて、未だにうなされてみたり。それは必要なのか、必要でないのか。意味がある事なのか、ないのか。

もし仮に自分が過去を思い出せないとしたら、それは何を意味するのだろう。今この瞬間とこれから起こる未来をただ待ち受ける。その連続。でも実際にはそんなことを想像することは不可能だ。過去が自分の周りを巡っているのだから。

最近思い切ったことをした。楽譜の山を手放した。中学ぐらいの頃にやっていたクラシックのエチュードやスケール。あるいは、ほとんどやらなくなったジャズスタンダーのリフ帳。自分が必死で取ったジャズプレーヤーのアドリブコピー。これらはダンボールの箱の中で眠っていて、ここ数年全く手に取ることのなくなっていたものだ。

これを捨てるということはどういうことなのかわからなかったが、ふと、処分してみようと思った。それぞれの譜面を手に取るとその頃のことが思い出される。ディスクマンなんていう今あるのかどうかも怪しいCDプレイヤーを、壊れるまで使い倒して音採りをした記憶や、セミの鳴き声を聞きながら、一オクターブの四分音符のスケールを戸惑いながらやった記憶。この曲を吹けるようになりたいと思って、買ったはいいものの未だに吹けない現代音楽の譜面。その光景の裏側で、響く笑い声、おしゃべり。ダイヤル式の電話。窓の外が枯れ枝ばかりの灰色の曇り空から、青く高く深く濃く澄んだ空と、それを反射して輝く緑の生い茂る斜面に変わる様。真夜中の怒声と叫び声、仰向けに眠ることの恐怖、壁に開けた穴…懐かしいと思う。思い出すことで心が痛み、そしてそこから自分が遠くまで来てしまったことにうろたえる。こうした感覚になることが思い出なのだとしたら、それは一体僕のなんなのだろう。皮膚や、指のように体の一部であるのか。これがあることが、ないことよりも良いことなのかわからない。

思い出のきっかけになるものを手に取らなければ、それは別に思い出されなかったに違いないのだ。

もしかしたら数年後にふと、捨てなければよかった、と思うかもしれないが。

とはいえ、手にとってその思い出に浸り、その気持ちをずっと留めておきたいというものも、もちろんある。過去に起こったことのはずなのに、それと同時にこの瞬間にすぐ隣で息づいているように感じるものでもある。

もし必要な思い出があるとしたら、それはきっと過去との隔たりを感じるものではなくて、あたかも、今この場でその瞬間を生きているように感じられるものであるに違いない。郷愁よりはむしろ、それを再び求めたいという欲望を呼び覚ますものに違いない。

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