あと二週間ぐらいしかないっていうのにsolo worksと銘打ってライブをブッキングした。渋谷のいつものBar Subterraneansで、不機嫌な夜の締めくくりにカルバドスをロックでちびちびとすすりながら、ブルースセッションにまみれていたら、前から腹の中でグツグツ音を立てて煮立っていたまだるっこい衝動が突然沸騰したのだ。

で、やるんだったらとことん自分をいびってみようと思ったわけだ。

soloというのは、本音で言うとしんどい。それはcompositionであれ、improvisationであれ。音楽を分解していくと、旋律、リズム、ハーモニーという要素になると言えるのだが、単音楽器でリズムもそれほど明確に出ないクラリネットという楽器でこの3要素を満たすのはそもそも無理な話なのだ。

これは聴き手にとってもしんどい話でもある。聴き手は漠然と音楽を聴いているわけではなく、リズムという車に乗って、旋律という道の上を走りながら、和音という風景を見ているのだから。先に何があるかが見え、どこに向かうかがわかり、それが美しく楽しくあるから、演奏家という運転手を信頼しその音楽に身を委ねることができる。

さて。

そういう意味で言ったら、僕は凸凹道を用意するだけで、リズムという車も持っていなければ、和音という風景も見せられない。運転手として信頼されるかどうかで言ったら、はなはだ疑わしい。

疑念の目で、眉をひそめて見られる中で、演奏することは、今までにいくらでも経験はあり、それはただただ自分の技量不足の結果ではあるのだが、帰り道の落ち込みようと言ったらなかなかのものではある。

それがsoloともなるとね。

それをこの先3回やるのだから、その怯え具合は半端ではないのだ。

ただ、僕が考える音楽というのは先の3要素以外の部分にも大きく広がりを持っていて、あるいは3要素という見方から外れた見方を持っている、ということも事実だ。

それは、みんなが音楽じゃないと思っていたものに音楽を感じる、といえばいいだろうか。みんなが美しい風景に見入っている時に、僕は街の雑踏の中で縦横に交わされる理解できない言語に聞き惚れ、鼻腔を鋭くつく不快な臭いを我慢しながら、激しく軋む金属音をごうごうキーキー立てながら飛び込んでくる地下鉄の音に心乱され、巨大なフェリーの震えるエンジン音を重低音に変換しながら、体全体でその音を取り込むのだ。

旋律は消え、脈絡のない音、出来事、臭い、温度、光、重量、空、煉瓦造りの壁、古い配管を滴り落ちる雨水、トタン屋根の上を軽やかに走る鳩の足音…それらが僕の心の中に溢れ始める。音楽が空気の振動を通して心を震わすのだとすれば、これらの事柄がどうして僕の心を震わさないと言える?

とすれば、何も三要素などと言って自らをしばりあげるのではなく、その場に一人でいて何を感じるのかを、存分に見てみようと思うのだ。ただ、やっぱり怯えてはいるけれど…

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