ライブの録音をたまに聴きかえすことがある。僕は自分の録音を聴き返すのはあまり好きな方ではない。ほぼ数秒ごとにイライラするから。オレかっこいい、みたいなことはほぼない。ただ、時々は自分への戒めのために聴くことはある。

その度に、結構何をやったか覚えていることに気づく。即興演奏はその場で初めて実行するまで、準備も予想もしないので、記憶に残ることもない気がするが、8割ぐらい覚えている。40分ほどのブレイクなしの演奏でも大体展開を覚えているし、場合によっては具体的なフレージングやノイジングも思い出せる。

それと同時のに思うのは、その演奏が再びできるか、と言われると、できる気がしないということ。よくもまあ、こんなことをやってのけたものだと。自分でやったことのくせに。自分ではない何者かがやったんじゃないかと。年々その感覚はひどくなって行く。もう演奏できないんじゃないかと思ったりするぐらい。時に苦痛ですらある。

ただ、僕を即興演奏家たらしめているのは、この感覚を持っているからだと思う。記憶しているが故に、それをもう一度やりたくないのだ。何か新しい未知を自分の中にも発見したいから故の、研ぎ澄まされた記憶。それが僕なりの美意識ということか。自己模倣が芸術家の終焉だというのなら、ありがたいことに僕はまだ芸術家でいるようだ。

未知を発見したい、という点で最近気にしているのが、”意味”にまつわる自分の心の有りようだ。意味のないこと、意味のあること、という物差しを使わないように自分の意識を操縦する、といったらいいだろうか。

即興演奏をやる上で邪魔だな、と思うのが、この”意味の有無”にとらわれる瞬間。”意味”は言い換えれば、自分の中の良し悪しの尺度だ。

そのノイズに意味はあるのか?予期しない音が出たことは無意味なのか?調性感を出すことは意味のあることなのか?

色々な問いかけが演奏のそこここで首をもたげるのだが、それにとらわれると次の一手がどんどん遠のき、停滞へと落ち込んでしまう。自分でいい響きだと感じることばかりを求めると、それ以外の可能性がどんどん消えて行く。気持ち悪いと感じる響きが、実は越えるべき壁となる響きかもしれないのにだ。

即興演奏家なら、こうしたチャンスに耳を研ぎ、体のバネに油をさして、舌なめずりをしていつでも襲いかかれるように、息を潜めて構えていることだ。胸を張ってなんでもやり抜ける自信を持っていることだ。自信がないというのなら、即興演奏に手を出さないことだ。

意味を超えた先にある音楽はどう聞こえるのだろうか。その段階に足を踏み入れたら、今ある音楽の聞こえ方はまるっきり変わる。実際少しずつその感覚の萌芽が自分の中に現れている。

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中