私がその人物に出会ったのは、スワンナプーム国際空港でロンドンへ向かう飛行機の搭乗を待っていたときのことだった。こざっぱりとしたスカイブルーのサマースーツを着て、バンコクタイムズを小脇に挟み、ジュラルミン製のアタッシュケースを手にして、空いているソファーを見つけ私の方に歩み寄ってくる60歳ぐらいの男。体格はがっしりとしており、褐色の肌に知性と野蛮を兼ね備え目尻に優しさをたたえ他大きな目。無国籍感が漂うその佇まいは、慌ただしく人々が行き交う中でもパッと目立つ。軽く会釈すると隣に座り、おもむろにバンコクタイムズを開きそれを読み始めた。
私がバンコクを訪れていたのは、自社の商品の生産工場の一つがそこにあり、その生産ラインの再編を任されたからであった。半年間の滞在を経てようやくそれも終わり、帰国の途に着くこととなった。
半年では全く聞き取れるようにならないタイ語のアナウンスの後に英語のアナウンスが流れ、機材トラブルによる3時間の遅れを知る。まあいい。半年プラス3時間の追加なら、エアコンが効いた空港の中まで入り込んでくるこのいまいましい湿気も我慢できる。まあ、ロンドンも雨降りに曇り、こと湿気については遜色ないか。しかしこの暑さと焼けつく日差しは耐えられなかったな。そう思いながら、私は半ばうとうとしていた。
「スワンナプームの意味をご存知ですか?」
突然隣の男が話しかけてきた。タイ語を解さない私は当然知らないと答える。
「サンスクリット語で黄金の土地という意味なんですよ。なぜ黄金の土地と呼ばれるのかについては、諸説あるのですが。特に砂金が採れるとかそういったこともなく、他に何か黄金にまつわる遺跡が見つかったという事実もない。」
私は訪ねた。「タイにお詳しいようですが、こちらにお住まいなのですか?それとも、ビジター?」
「私にとっては、全ての場所が去るべきところなのですよ。そして向かうところが希望の土地である様に願っているのです。あなたはどうですか?」
掴み所のない答えに私は幾分戸惑いつつ返す。「私は仕事で訪れたんです。まあ、会社の用意したホテルと仕事場を行き来するだけで、去るべきところかどうかもわからないまま帰国するのですが。」
「なるほど。あなたには帰るべきところがあるのですね。それは何よりだ。私にとって、もし帰るところがあるとすれば、それは黄金色のしぶきをあげる泉と、そこから溢れた川が流れこむ湖のある場所なのですが。スワンナプームがもしかしたらそこかと思って訪れたんです。チャオプラヤ河は広大で豊穣な三角州を持つ偉大な川でしたが、黄金のしぶきをあげる泉を見つけることはできませんでしたがね。」
「もし、GoldenSplashersと名乗る3人の男たちに出会ったら、こう伝えてください。預言を伝え続けよ、と。」そう言って軽く会釈すると、彼は立ち上がり、ペルーに向かう飛行機の搭乗口に向かった。
私は今、日本という極東のちっぽけな島国の東京とかいう街に滞在している。ちっぽけな島国という意味では私が後にしてきた英国も似た様なものだ。そう。私も気づいたのだ。スワンナプームで出会った男の語った言葉が目覚めさせた。すべての場所が去るべきところなのだと。そして、希望の土地の鍵を握るのはあの3人の男たちなのだと。GoldenSplashersなのだと。